近づく物は命が奪われると伝わる栃木県那須町の『殺生石』を観に行ってみた
栃木県那須町の火山性ガスが噴出する為に、昔々から生き物を殺す”石”と伝わる『殺生石』と云われる岩を観に「殺生石園地」にやってきました!!
ココは観光スポットだけど、ガスの噴出量が多い時は立ち入りが規制がされる実は危険な場所なんだよ。
本日は、この名称に”殺”という文字が入るなんとも物騒な『殺生石』のご案内をしたいと思います。
▼アクセス
「殺生石」へは、最も近いJR黒磯駅からでも約20㌔もあり、バスでも40分程掛かります。
JR黒磯駅から東野バス那須ロープウェイ行きに乗車して、「那須湯本温泉」で下車すれば5分程で到着するから。 トータル50分だよ!!
殺生石だけでなく、那須全体にいえますが車が無いと遊べない町なので基本は車行動をオススメします。
殺生石には無料の駐車場も完備してるから車がいいよ!
住所:〒325-0301 栃木県那須郡那須町湯本
”いでゆ橋”を渡って殺生石へと歩を進めます。
ココから既に硫黄の匂いがプンプンしているよ!
「殺生石」は、栃木県、群馬県、福島県にまたがる年間1,770万人が訪れる日光国立公園の一部にあります。
くれぐれもガスの匂いが酷い時は入っちゃダメだよ!!
いでゆ橋を渡った現在地から歩いて、「盲蛇石」、「賽の河原」、「千体地蔵」を越えて最も奥の『殺生石』に向かいます。
ココから240㍍だ!! レッツゴー!!!
殺生石園地を傷めない様に造られている遊歩道を歩いて進みます。
ゆるやかな坂道だから歩きやすいよ!!
▼盲蛇石
登り始めて最初に出てくる見所ポイントがこの「盲蛇石」と云われる岩石です。
この岩には伝承が残っておりますので、案内板よりご案内します。
昔々のある冬のこと、この地で五左衛門という男が盲目の大蛇と出会いました。
彼は、蛇が厳しい冬を越せないだろうと気の毒に思い、ススキと小枝で小屋を作ってあげました。
翌春、小屋を訪れると蛇の姿は無く、輝く湯の花があるばかりでした。
その後、湯の花の作り方は村中に広まり、人々は蛇への感謝の意を込めて、蛇の首に似たこの石を「盲蛇石」と名付け大切にしたんだとさ。
結局、蛇はどこに行ったんだろうね??
▼賽の河原
「盲蛇石」を観た後は、石積みが広がる『賽の河原』を越えて進んでいきます。
ちなみに、「賽の河原」というのは、あの世(死後)との境目に流れる三途川(さんずのかわ)の河原の事で、親より先に亡くなった子供の霊が親不孝の報いで苦役を受ける場所とされているんだ。
この苦役というのは、子供の後に亡くなった親の霊を供養する為に石積みをして積石塚を造らされますが、完成の直前になると鬼が来て塚を破壊されてしまい、それを何度も何度も繰り返させられる事を指します。
子供の霊は最後には地蔵菩薩が来て救済されると云われるだ。
”三途の川”という仏教ワードが出ていますが、仏教とは関係のない日本独自の民間信仰の一つですよね。
▼千体地蔵
賽の河原の反対側には、子供の霊を救済するかの様に無数のお地蔵様が並ぶ「千体地蔵」があります。
これも歴史が有りそうだけど、昭和50年代に旅館組合や地元有志の方達によって平和への願いを込めて発案され建立されたものなんだよ。
▼教伝地獄
更に歩を進めた所に岩が積み重なる『教伝地獄』なる看板と地蔵様が置かれておりました。
第九十六代・後醍醐天皇の御代(1318-1339)に、奥州白川在の五箇村に蓮華寺と言う寺があり「教傅(伝)」と言う小坊主がおりました。
この教傅は生まれながらの悪童で、心配した母がこの寺に預かってもらうことにしました。
その教傅も二十八歳になって、前の住職の跡を継ぎ、母と一緒に寺に住むようになりましたが、その行いは少しも直りませんでした。
延元元年(1336)のことです。教傅は二、三人の友人と一緒に、那須温泉に湯治に行くことになりました。
その日のことです。 教傅は、母が用意した朝食を「まだ旅支度も出来ていないのに」と悪口を言いながら蹴とばして、そのまま出発してしまいました。
那須温泉に着いた教傅達は”殺生石”を見学しようと賽の河原付近まで行くと、今まで晴れわたっていた空が曇り雷鳴が天地を揺るがし、大地から火災熱湯が噴出しました。
連れの友人は一斉に逃げ去りましたが、教傅は一歩も動くことが出来ませんでした。
逃げ出した一人の友人がふり向いて見ると「おれは母の用意したお膳を足げりにして来た天罰を受け、火の海の地獄に堕ちて行く」と教傅が大声をあげて苦しみもがいております。
友人がかけ寄り助けようと引き出しましたが、教傅の腰から下が、炭のように焼けただれており、息を引き取ってしまいました。
それからも教傅の引き込まれたところには泥流がブツブツと沸いていましたが、いつしか山津波に埋まってしまった。
その後、那須湯元の有志が、享保五年(1720)に地蔵を建立して供養を行い、親不孝のいましめとして参拝する者が後を断たなかったと云います。
自業自得なお坊さんのお話だね~
左側の頭巾を被ったお地蔵様は昭和50年代に建立されたものですが、右側の少し小さなお地蔵様は享保五年(1720)に建立されたものです。
教伝地獄を越えると無料の休憩処もありますが、地熱なのか?灼熱の太陽??なのか、めちゃくちゃ暑くこんな所で休憩が出来るか!という事でスルーして更に進んで行きます。
▼殺生石
最も奥にある「殺生石」に到着しました!
殺生石の周りからは火山特有の有毒ガスが噴出していて、近づいた小動物の殆どが死んでしまう事からこの名前が付いたんだよ。
「殺生石」と呼ばれるのは、しめ縄が巻かれた岩を指します。
この殺生石には、本当か嘘かの昔から伝わる九尾の狐伝説というお話があるんだよ。
▼九尾の狐伝説
「九尾の狐伝説」物語は今から約3,500年前。 中国、インドを荒らしまわった九尾の狐がいました。
この狐は何故だか約800年程前の日本に渡って「玉藻の前」という美女に変身し、時の帝である鳥羽上皇の寵愛を受ける様になりました。
玉藻の前となった九尾の狐は帝の命を奪い日本を我が物にしようとしましたが、占い師の阿部泰成によって正体を見破られ、那須野が原に逃げ込んだところを、当時の武将・上総介広常、三浦介義純によって討ち取られました。
狐は死んで巨石となり、その怨念は毒気となって近づくもの全てを殺し続けました。
時は過ぎ、これを聞いた名僧・源翁和尚がこの地を訪ね、持っていた杖で石を一喝すると、石は3つに割れ一つは会津に、一つは備前へと飛んでいき、残った一つが殺生石だと伝えられています。
死んでも悪い狐だったというお話だね。
殺生石から更に1キロを歩いて行くと”恋人の聖地”なる展望所がある様ですが、特段興味も無く、草も生い茂っており蛇が怖い(暖かい場所=虫が沢山発生=それを捕食する蛇もいっぱい・・・と思っている)ので本日はスルーします。
さー元気いっぱいに来た道を戻っていきます。
▼湯の花採取場跡
この地では大正時代を最盛期に昭和18年頃まで火薬の原料ともなる「湯の花(硫黄)」が採取されており、それを再現した跡地がこの殺生石園地には造られており見所の一つになっております。
大正時代が最盛期だったという事は、第一次世界大戦などの戦いで大量の火薬を消費していた時代だね~。
殺生石園地全体の地面のあちらこちらには地面が黄色くなっている個所があり、採取量こそ少なそうですが少しの労で採取が出来そうですね。
▼さいごに
以上で、近づく物は命が奪われると伝わる栃木県那須町の『殺生石』のご案内となります。
那須観光に来た際には訪れてみては如何でしょうか。
ご精読ありがとうございました。
訪れる際は、ガスにはくれぐれも注意してね!!
やろうかなぁ?やめとこうかなぁ??と悩んだら ”犯罪や人に迷惑をかける事以外、全力でやってみて下さい。”の恩師の言葉を、元にとりあえず何でもやってみる、趣味は、旅行・骨董品収集のいくちゃと申します。(最近は、ドローンも楽しいです。)
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